中島みゆきさんの「ファイト!」という曲に
私の敵は私です
という一節があります。
頭の中では「これが正しい」と理解している、正しい自分がいたとしても
いざ行動に移すとなると、頭の理屈と身体とがリンクしない別の私。
例えば
「お年寄り、身体の不自由な方には席を譲りましょう」というモラルは、電車に乗っている人すべての人が理解しています。
けれども、いざ席をゆずるべく場面になった時
■...ゴメンナサイ、今日は疲れているから座っていたい、誰か代わりに立ってちょうだい...
と寝たふりをする他人任せの自分
■...席を譲るのはいいけれど、「すぐにおりますから結構です。」と言われちゃったらやり場に困るな...
と些細なことですら傷つく自分、その傷を避けたい自分
思い当たる節はどなたでもあるかと思います。
いえいえ、私はそうではないですよ!と言える方もいるかと思いますが、個人的には「うんうん、わかるわかる。」と言ってくれる人の方が親近感がわきます。そもそも人間、完璧ではありません。
この二つの例を書けるということは、私も低次にいる証拠です。
ただし、そんなちっぽけな自分と向き合った時、「ああなんて、自分はちっぽけなんだ...」という自省の心は持っているべきと思います。
私自身、気が短いし、根に持つし、毎日毎日「なんで私はこうなんだ...」とため息を打ってばかりですが、10年前よりかは、ずいぶんマシになりました。
ヨガではよく「お隣の方とは気にしなくていい」とインストラクターから言われますが、隣の人を気にしている暇もないほどの集中状態に導くのが私の役割だと思っています。
その集中状態にあるとき、おそらくは以下に記すような低次元の自分と向き合わざるをえなくなるはずです。
■諦めがはやい自分
■意地汚い自分
■ズルい自分
■都合のいい自分
■笑って誤魔化す自分
■開き直る自分
■人のせいにする自分
■不貞腐れる自分
など。
嫌という程出てきます。
肉体が疲れれば疲れるほど、どんどん出てきます。仕事のあとの電車のように。
その低次元の自分が現れた時、高次元の自分が大切としている美学を武器にしてどれほど闘えるか。
ヨガのあとに「やりきった!」と達成感を抱けたならば、私の敵に打ち勝った証拠でしょう。
そんな風に心の修練を楽しまれてください。